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【大原麗子】五木寛之と渥美清(寅さん)の大原麗子像は同じだった
美人で魅力的だった大原麗子さん。
性格も外見同様に素敵な性格だったのでしょうか?
五木寛之(作家)さんと渥美清(寅)さんの大原麗子像は同じものでした。
どのような大原麗子像だったのかを紐解(ひもと)いていきます。
五木寛之さんと大原麗子さん
雑誌の対談がありました。
五木寛之さんが約束の時間に六本木の鮨長(すしちょう)で待っていると・・・
来ない。
30分過ぎても来ない。
五木寛之さんがトイレに行った時、
たまたま渥美清さんと出会ったそうです。
「大原麗子さんと対談するため、待っているんですけど、来ないんですよ」
五木寛之さんのボヤキを聞いて
渥美清さんが笑った。
「まあ、彼女、きませんね。断言します」
1時間経過したので帰ろうとした時
1時間経過したので、五木寛之さんが帰ろうと席を立ち上がった。
その時、大原麗子さんが現れた。
いきなり
椅子に座ると
謝りもせずに溜息(ためいき)をついて
「凄かった」
五木寛之さんが
「なにが?」
「いま、新宿で紅(あか)テントの公演見てきたんだ。早く行ったんだけど満席でね。仕方ないから、どこかの大学の学生さんの膝の上に座って観たのよ。
もう、感激。
すごいわね。状況劇場って」週刊文春24.5月23日号 五木寛之氏のコラム「生き抜くヒント!」から抜粋
(注)紅(あか)テントは唐 十郎(から じゅうろう)らが行った劇。
警察と衝突しながら、1960年代後半から1970年代のアングラ演劇ブームを牽引する存在となった。
参考文献:デジタル大辞泉プラス
「謝りもせずに~」という文字から五木寛之さんも頭にきたのでしょう。
五木寛之さんのコラムを、だいぶ前から読んでいますが、
人の悪口を書くことがなかった五木寛之さん。
大原麗子さんは例外だったようです。
渥美清さんと大原麗子さん
大原麗子さんは、松竹の映画「男はつらいよ」でマドンナ役を2回演じています。
シリーズ22作「噂の寅次郎」1978年
シリーズ34作「寅次郎真実一路」1984年
そこで
渥美清さんは大原麗子さんの性格を十分に理解したんだと思います。
人を待たせることを
何とも思わない女性だと。
だから五木寛之さんに対して
「まあ、彼女、きませんね。断言します」
「相変らずだな~」
と思ったことでしょう。
ここで
森光子さんと浅丘ルリ子さんの大原麗子像をみてみましょう。
大原麗子さんの「お別れの会」の会場
森光子さんが弔辞で「あなたは時間に関係なく真夜中でも電話をかけてきましたね」と言い、
浅丘ルリ子さんも弔辞で「大原からの一方的な長電話に苦しめられた」と語った。ちなみに「お別れの会」は、森光子さん、浅丘ルリ子さんらが発起人で開催されました。
フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」から引用
渥美清さんが鬼籍に入られたのが1996年8月4日(享年68歳)
大原麗子さんが鬼籍に入られたのが2009年8月3日(享年62歳)
命日が一日違いです。
真夜中の時間、相手が寝ていようが、話をしたくなったら、電話をかける。
弔辞では故人の悪い話は言わないと思いますが、大原麗子さんらしいエピソードということで、話されたのでしょう。
まとめ「どこに出しても恥ずかしい」
友人でもない著名な作家(五木寛之さん)を「待たせる」ことに、全く何も感じなかった大原麗子さん。
社会人として失格です。
「どこに出しても恥ずかしくない」という言葉がありますが、どこに出しても恥ずかしい人だった。
大原麗子さんがどんなに魅力的でも「人に紹介できない人」だったと思われます。
演技のことなどで監督さんと、ぶつかることが多かったと言われている大原麗子さん。
大原麗子さんにとっては、いい作品を作りたい思いがあったとしても、遅刻常習犯そして相手を思いやる気持ちの無い人から、いろいろと指摘されても
「何言ってんだよ」
となります。
人一倍演技熱心で、台本のセリフを自分が思うように書き換えたりしていたため、演出家や脚本家と口論することも、しばしばあり、晩年は出演機会が減っていったそうです。
人に紹介できないため、新しい出会い(映画やテレビ出演の話)も当然ないわけです。
サントリーのCM
レッド(1977年 – 1987年)「少し愛して、なが〜く愛して」
オールド(1988 – 1990年)
大原麗子さんの魅力が伝わるコマーシャルでした。
このCM出演が終了してから映像で大原麗子さんを見る機会が減っていきました。
可愛く魅力的な女性
大原麗子さん。
大原麗子さんのサントリーCMは大原さんしかできない逸品でした。
写真はORICON NEWSから引用
男はつらいよのポスターはCINEMA CLASSCSから引用しています。
ユーチューブの動画は「soikll5」から