【寅さんの妹倍賞千恵子さん】高倉健さんとの恋

【寅さんの妹倍賞千恵子さん】高倉健さんとの恋

倍賞千恵子さんは1941年6月29日生まれ
35歳の時(1976年3月)に結婚(最初の結婚)
結婚相手は8歳年下の小宮守(あとに健吾に改名)氏。

結婚生活は4年で破局。
出会いは「屋根の上のヴァイオリン弾き」での共演でした。

倍賞千恵子さん曰く
「さくら、さくら」と、やたらに私に絡んできた。
その勢いに押される形で1976年に長野・軽井沢の教会で身内だけで挙式。
生活や仕事の認識などのズレからか、突然、「申し訳ない」「別れてほしい」と相手に切り出され、結局、結婚生活は4年しか持たなかった。

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高倉健さんへの思い(恋)

映画:幸福の黄色いハンカチ(1977年)で高倉健さんと初共演。
この時のエピソード

夕張での合流初日は生憎(あいにく)の小雨。喫茶店で簡単にお茶した後、皆で傘を差して宿舎に向かう。山田洋次監督が先頭を黙々と歩く健さんを見ながらこっそりささやいた。

「倍賞君。健さんに兄弟が何人いるか聞いてごらん」

言われるままに健さんに駆け寄り、色々質問する。ドキドキしたせいか会話の内容は覚えていない。

でも気が付くと恋人のように自然に腕を組み、相合い傘をしていたので我ながら驚いてしまった。
日本経済新聞の「私の履歴書」から引用

芝居ではありません。
自然と高倉健さんと「恋人のように自然に腕を組み、相合い傘をしていた」と告白しています。

この時は、倍賞千恵子さんは結婚して1年も経っていない頃です。
(高倉健さんと)恋人のように自然に腕を組み、相合い傘をしていた。

高倉健さんと比べたら、誰でも負けてしまうでしょう。
人妻でありながら高倉健さんと相思相愛だったと告白しています。

破局の理由は、はっきりしませんが、
寅さんの妹のさくらのイメージで倍賞千恵子さんと結婚したものの、ギャップが大きすぎた。
当時はタバコも吸っていたようなので良妻賢母のイメージとはかけ離れていた。

そして高倉健さんに恋心を抱いていた倍賞千恵子さんとは結婚生活を送れなかった。
「申し訳ない」「別れてほしい」と切り出され、結局、結婚生活は4年で幕を閉じました。

時系列
8歳年下の男性と結婚(1976年)
・幸福の黄色いハンカチ(1977年)
・遙かなる山の呼び声(1980年)
1980年離婚
・駅 STATION(1981年)

上記の3作は、高倉健さんと共演しています。

駅 STATIONの共演

映画:駅 STATIONでの高倉健さんとの思い出を日本経済新聞の「私の履歴書」で倍賞千恵子さんが書いています。

私が演じたのは居酒屋を独りで切り盛りする女将。忘れもしないワンシーン。

大みそかの晩、私は看板を下ろした自分の店で紅白歌合戦を見ながら健さんと熱かんを飲む。優しく肩を抱かれ、2人だけで過ごす静かで濃厚な時間。テレビから流れてくるのは八代亜紀さんが歌う「舟唄」

「あ、いいなぁ、この歌・・・私大好き・・・」

腕の中で指を絡ませる。

命の火が激しく燃えた。

42年たっても「舟唄」を聞くとあの熱い夜を思い出す。
日本経済新聞「私の履歴書」から引用

「命の火が激しく燃えた」
「あの熱い夜」
高倉健さんへの恋心を表現した言葉でしょう。

もし「駅 STATION」の映画を見る機会があったら、居酒屋でのシーンを見てください。
演技ではない。
恋人どおしのワンシーンです。

八代亜紀さんが歌う「舟歌」が良い。
大みそかに紅白歌合戦を見ている男女の物語。

「駅 STATION」は高倉健さん、倍賞千恵子さんだけでなく八代亜紀さんの歌があって成り立った映画でした。

八代亜紀さんは、2023年12月30日に亡くなられてました。

高倉健さん、八代亜紀さんが亡くなられ、昭和の記憶がまた1つ消えました。

画像は映画COMから
「駅 STATION」のワンシーン
日本経済新聞「私の履歴書(2023年12月)」の内容を引用しています。

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エピローグ

八代亜紀さんが
高倉健さんについて語った内容を2つ紹介します。

八代亜紀:自分で「大スター」って言う人は「小スター」よね(笑)。
そういう人は、足をポンって出すのね。
そして、それにつまずいてコケた人を見て喜んでるの。
絶対にこういう人になってはいけません。

健さん、裕次郎さん、吉永(小百合)さん、王(貞治)さん、長嶋(茂雄)さん・・・
私はたくさんの大スターから愛をもらってきました。
cinra net から引用

映画「駅 STATION」について語っています。

舟唄が結んだ健さんとの縁

完成披露の試写会で初めて見た時、紅白のシーンが使われるとだけ聞いていたので驚きました。
そして、その場にいた健さんは、私に「八代さん、これはね、『舟唄』という映画なんです」とおっしゃったの。
「いつもテープを持ち歩いて聞いていた」とも。感激しました。

実は私、売れない20歳の頃、2年間、すでに大スターだった健さんのショーの前歌として全国を回っていたんです。
健さんは自分の出番はまだなのに、私のステージの袖に来て「勉強させてもらいます」って頭を下げるような方でした。

「舟唄」が流れるエンディングと、健さんとの思い出と
私の歌手人生の魂とも言える映画です。

朝日新聞マリオン欄掲載記事から引用

倍賞千恵子さんが、高倉健さんについて書いた「私の履歴書」の内容が2023年12月19日。
「42年たっても『舟唄』を聞くとあの熱い夜を思い出す」

この倍賞千恵子さんの高倉健さんへの思いを八代亜紀さんも読んだことでしょう。

そして「舟唄」が流れるエンディングのように2023年の年も終りました。

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