司馬遼太郎の「街道をゆく 台湾紀行」の表紙

台湾旅行に行くなら司馬遼太郎『街道をゆく 台湾紀行』を読んでおきたい

司馬遼太郎氏の『街道をゆく 台湾紀行』の文章からです。

1895年(明治28年)から50年間、台湾は日本領であった。

梅沢忠夫氏の言葉を借りると、その間、日本は「他民族国家」だった。
1945年に分離するまで、そこで生まれて教育をうけた台湾の人々が、濃厚に日本人だったことを、私どもは忘れかけている。

近代日本に辛口の邱永漢(きゅうえいかん)氏でさえ、台湾島の50年について、「もしそうでなかったら、台湾島は、そのそばの海南島のようでありつづけたであろう」

台湾が日本と分離したあと『中華民国』の乗り込みを迎えた。
意外にも、本島人(台湾人)は強烈な抑圧を受けた。

海南島 グーグルマップから

日本の降伏後

大陸から、中華民国がやってきた。
当初、台湾の多くの人々は、これを光復(祖国復帰)として歓声の声をあげた。
やがて失望した。

やってきた陳儀(ちんぎ)以下の軍人・官吏は宝の山に入りこんだ盗賊のように掠奪(りゃくだつ)に奔走し、汚職のかぎりをつくした。

違うページではこのように書いています。
日本が降伏した。
蒋介石は先発として陳儀(ちんぎ)を台湾に派遣した。

陳儀はかつて福建省の主席時代、一省を汚職まみれにした札つきのアジア型の政客で、在任二年間、台湾を私物化し、搾(しぼ)れるだけのものを懐(ふところ)に入れた。

陳儀の部下は一兵にいたるまで小陳儀で、中国における過去の王朝軍と同様、私的利欲しかなく、また征服軍として台湾人を無数に殺戮した。

蒋介石については、日本の教科書では悪く書かれていません。

31年満洲事変勃発後日本の侵略が激化すると,共産党は一致抗日を宣言し,36年の西安事件を契機に抗日民族統一戦線が結成される。37年日中戦争勃発後第2次国共合作結成。38年国民党総裁に就任。日中戦争終結後再び国共間に内戦が勃発。48年には国民政府総統に就任するが,49年共産党との内戦に敗れて台湾に移る。台湾においては総統を歴任し,アメリカの支援のもと経済発展を実現させた。
(山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

大陸から「中華民国」という国名を背負って泥靴で上陸してきた大陸系の人々が、支配階級をつくり、とくに本島人を殺し、ときに凌辱し、むろん差別した。

だからといって、司馬遼太郎氏は、日本の統治を肯定しているわけではありません。

李登輝氏との対談でこのように述べています。
「私は、ほかの国を植民地にするのは、何よりも他民族の自尊心という背景をくだくことで、国家悪の最(さい)たるものだと思っています」

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八田與一という日本人

ほとんどの日本人は知らない。
台湾で一番有名な日本人が八田與一氏です。

台湾観光をする人は、八田與一氏の功績を知っておいた方がいいようです。

嘉義市から台南市までの野は「嘉南平野」と呼ばれる。
不毛の大地だった。
理由は「渓」と呼ばれる河川の数が少なすぎることにあった。

日本領時代に八田與一(土木技師)が、この平野を美田にしようとして成功した。

八田與一 記念公園として台湾の人たちに大切にされている。

台北ナビ(ネット)の八田與一紀念公園(台南市)の解説から
2011年5月8日、烏山頭ダムを建設した八田與一技師の記念公園がオープンしました!

こんにちは、台北ナビです。

八田技師は、台湾では中学校の歴史教科書『認識台湾』にも掲載され、子供からお年寄りまで、最も尊敬される日本人として知られています。彼の功績は、戦前台湾の農業用水施設としてのダムや関連施設を建設したことにあり、中でも最大の偉業は、台南の烏山頭水庫(ダム)と嘉南用水路です。このダムと水路の建設のおかげで、台湾最大の穀倉地帯が生まれました。そのため、土地の人は八田技師に感謝し、銅像や記念館を同地に造りました。そして、毎年彼の命日5月8日には追悼式をあげ、日本からは八田技師のご遺族や関係者の方々、台湾全土からも多くの方が参列してきました。

八田技師は、人情味のある現場責任者として農民に慕われました。彼は、大工事となる烏山頭ダムに携わる人たちが、安心していい仕事ができるようにと、家族を含め1000人にもなるダム建設関係者住宅区を形成しました。工事関係の施設はもちろんのこと、家族全員が住める宿舎や共同浴場、商店や娯楽施設(テニスコートや広場、映画館)、学校や医療所も作ったのです。
台北ナビより

当初は干ばつと水害の繰り返しで食物が一切収穫できなかった嘉南平原が、八田技師が建設したダムと16000キロにおよぶ網の目のような用水路のおかげで、台湾最大の穀倉地帯に生まれ変わりました。高鉄(新幹線)や台鉄の列車の窓から外を望むと、青々とした田んぼが一面に広がっているのが見え、農業王国台南を目の当たりにすることができます。

嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行き渡った後、八田與一は家族とともに台北へ向かいました。しかし、当時太平洋戦争の真っただ中。八田技師も、1942年陸軍に徴用されました。乗った船がフィリピンに向かう途中、アメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去りました。その後、八田技師の妻外代樹(とよき)は、夫が建設した烏山頭ダムの放水口の身を投げて後を追いました。台湾の人の胸を打つのは、彼の功績はもちろんですが、夫婦の絆の固さもあるようです。
台北ナビより

上記の八田與一氏の説明は下記リンクからの引用です。
TAIPEI navi(台北ナビ)

最近、台湾リピーターの日本人のなかで、静かにブームになっているのが、「八田與一」という人物。おそらく一般の日本人は名前すら聞いたことがないでしょう。実際、ナビもこの八田與一さんのことをよく知るようになったのは、台湾に来てしばらくたってからでした。彼は、ここ台湾の地元の人々に神様のように崇められ、台湾の歴代総統も彼の墓前参拝に訪れるほど、非常に台湾の農業に貢献した日本統治時代の日本人技師。彼は、台南県の烏山頭というところに、戦前先進的なダムを精力的に作り上げ、現在でもその灌漑システムはその一帯の農業に貢献しています。
この内容も台北ナビより

『街道をゆく』のP239~P261で、八田與一氏のことを書いています。

八田與一氏の像

グーグルマップのクチコミ
グーグルマップから「八田與一氏の銅像のクチコミ」

同グーグルマップのクチコミ
グーグルマップから「八田與一氏の銅像のクチコミ」二人目

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まとめ

台湾の人のことを書いているくだりがあります。P123

謝さんは、つらい。
日本文化を愛しながら、さらには日本人が好きでありつつも、現実に、台湾にくる日本人には失望し、結局、八田與一を研究することで、自分の「好き」という気持ちを慰めようとするかのようである。

女性の昭昭さんから司馬遼太郎さんが言われた言葉。P380
「日本は、なぜ台湾をお捨てになったのですか」

美人だけに、怨(えん)ずるように、ただならぬ気配がした。

司馬遼太郎さんは、何も答えることができなかった。

台湾観光の写真 
画像 FLY from KANSAIから

日本人は台湾の歴史を勉強していません。
というか、山川出版社の「蒋介石」の説明でも、こんな内容です。

49年共産党との内戦に敗れて台湾に移る。台湾においては総統を歴任し,アメリカの支援のもと経済発展を実現させた。

(山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

少しでも台湾のことを知ってから、台湾観光に出かけたい。

読者のレビュー(アマゾンから)
台湾行く前(4年前)に買って途中で読めなくなりやっと読み終えました。台湾行く前に読んでおけば感慨深い旅になったのに。

読者のレビュー2
台湾の歴史、文化を知りたいならまずこの本を読むべき。
一年の大半を台湾で過ごしますが、もっと早く読んでおけばと思いました。
旅行、仕事で台湾へよく行かれる方には、特におすすめです。

読者のレビュー3
本書は日本と浅からぬ関係で結ばれた台湾の複雑な歴史と現代(といっても約20年前だが)の姿を捉えた、街道をゆくシリーズのベスト5に入る名著だ。

女性の昭昭さんは、司馬遼太郎さんに2回、同じことを言いました。
「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」と。

中国が台湾を武力で侵略するかもしれない情勢のなか
もちろん、日本は、台湾を守るために、戦争は出来ません。

司馬遼太郎さん
日本が台湾にできることは、何かあるのでしょうか?

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