「宗教とお金について」五木寛之さんの私訳歎異抄で読んでみた

私訳「歎異抄」は読みやすい本です。
五木寛之さんが、「私はこう感じ、このように理解し、こう考えた、という主観的な現代語訳」になります。
他の歎異抄の本と比べ読みやすい本が私訳「歎異抄」

金品に関する部分がありましたので私訳「歎異抄」から抜粋します。
「寺や僧侶たちに寄進(きしん)する金品の多いか少ないかで、仏の大小がきまるなどという主張がある」
「これは問題外の論であって、お話にならないことだ」
「そもそも仏に大小などあろうはずがない」

「真の仏のすがたとは長短も形もなく、色も匂いもないのだから、そもそも大小を論ずることなどありえないことだ」
「仏への寄進は往生(おうじょう)して仏になるための布施行(ふせぎょう)のひとつであるが、真実の信心(しんじん)がなければ、いかに高価な財宝を仏前にささげ、僧に布施したとしても無意味であると心得なさい」

大切なことは
お金ではない。
真実の信心(しんじん)が大切。
では信心とは何か?
私もあなたも「信心(しんじん)」の意味がよくわからないと思います。
日本大百科全書(ニッポニカ)で「信心」を調べると下記の内容でした。
一般に、信というと何かある対象を信じることと理解されるが、仏教では信は究極の真理である法そのものが自己のうえに現れ出たものであって、これが信心の本質である」
「信とは心を清浄にする精神の作用をいう。仏道を修める第一歩にこの信を置き、心を清浄にして教えを疑わず、その教えに向かうことである」

わかったようでわからない。
よくわからないが私訳「歎異抄」の内容を続けます。
「貧しくて、紙一枚、小銭すら寄進することのできない人であっても、本人が他力のはたらきを深く信じ、本願(ほんがん)にまかせる心をさずかっていれば、その者こそが阿弥陀仏(あみだぶつ)のお心にかなうのである」

「寄進や布施の額が仏の大小にかかわるという説は、つまるところ金品が救いに関係があるという話だろう。それは結局、仏法にことよせて同じ念仏の兄弟を脅かすような恥ずかしいことなのだ」
同じ念仏の兄弟の意味がよくわかりませんでしたが、
寄進における金品の多さと救いとの関係はないということは理解できました。
むしろ、多額のお金を要求する行為を批判しているのが「歎異抄」です。

司馬遼太郎氏曰く
「無人島に一冊持っていくとしたら〖歎異抄〗だ」とまで言った本です。

ドイツの哲学者ハイデガーは
「もし10年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にいたことを知ったなら、日本語を学んで聖者の話を聞いて、世界中にひろめることを生きがいにしたであろう」

五木寛之さんも
何度も繰り返し読み込んだからこその「私訳歎異抄」の完成度

最後に9章の内容の一部分を書いて終わりにします。
「どれほど名ごりおしかったとしても、人はこの世の縁がつきはて、やがてどうしようもなく死んでいくときがくる。その時わたしたちはかならず浄土に迎えられるだろう」

「はやく浄土へ往生したいと切に願わず、この世に執着(しゅうちゃく)する情けないわれらだからこそ、阿弥陀仏(あみだぶつ)はことに熱い思いをかけてくださるのだ」