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【日経新聞私の履歴書】黒田東彦日銀総裁の私の履歴書を教科書としたい
2023年11月の日本経済新聞の「私の履歴書」は、前日銀総裁の黒田東彦(くろだはるひこ)氏です。
時代背景がわからないと、黒田東彦氏の文章が十分に理解できません。
黒田東彦氏が安倍晋三元首相に日銀総裁に指名され「異次元の金融緩和」を行うまでは、日本は「地獄」でした。
「なにを大袈裟(おおげさ)な」と思われるでしょうが、これから金融や経済を学んでいく学生たちが知っておくべき内容です。
個人批判なしで、1998年から2023年までを見ていきます。
もちろん
ベースは黒田東彦氏の書いた「私の履歴書」になります。
黒田氏も個人批判めいたことは書いていません。
速水日銀総裁時代
私の履歴書18回目(11月19日)のタイトルが「ゼロ金利解除に疑問抱く」
ここで速水優元日銀総裁が登場します。
速水優氏の日銀総裁だった時期
1998年(平成10年)3月20日~2003年(平成15年)3月19日
速水氏が日銀総裁になる4か月前の1997年11月に大手銀行の北海道拓殖銀行と証券会社大手の山一証券が事実上倒産しました。
ここから日本の地獄が始まりました。
自殺者数
1997年 24,391人
この年の11月に大手銀行と大手証券会社を潰しました(救済しませんでした)
速水日銀総裁の任期が98年3月~03年3月です。
1998年 32,863人
1999年 33,048
2000年 31,957
2001年 31,042
2002年 32,143
2003年 34,427
自殺者数は3万人を越えました。
黒田氏は、当時大蔵省(現財務省)にいました。
99年に通貨政策の責任者である財務官となった私も当然、日銀の政策に意見をいう立場にはない。
だが98年ごろから消費者物価の下落が始まるなど日本経済がデフレに陥るなか、政策の迷走に何度も、もどかしい気持ちを抱いた。98年3月、速水優日銀総裁が就任した。
速水氏はゼロ金利政策を導入し、不況と金融危機に対処した。
だがデフレの状況が続いているにもかかわらず、日銀は2000年8月にゼロ金利政策を解除した。
私はこの決定は間違っていると思った。
日本経済新聞の「私の履歴書」から
実は1997年の24,391人も多い数字です。それが1年で3万人を超える自殺者が出ました。
1993年 21,851人
1994年 21,679
1995年 22,445
1996年 23,104
1997年 24,391
1998年 32,863
1998年以降の異常な数字がわかります。1998年3月に速水日銀総裁が誕生。
93年~94年は21000人台レベルでした。
今年4月に私の後継の日銀総裁に就いた植田和男氏は、当時の審議委員として解除に反対票を投じた。金融緩和を長く続ける姿勢を伝えて物価や景気を刺激する「時間軸効果」に鑑み、ゼロ金利を続けるべきだと主張した。私も植田氏の考えに共感した。
実際に経済状況は悪化し、01年3月に日銀は量的緩和政策としてゼロ金利の復活を強いられた。それでも速水総裁はゼロ金利や量的緩和は異例のことであり、金融市場に悪影響を与えると強調した。物価が下がることにはプラス面もあるという「良いデフレ」論を展開し、円高・ドル安を歓迎する発言もしてデフレを悪化させた。
私は敬虔(けいけん)なクリスチャンの速水総裁を人間として尊敬していた。だが金融政策や為替を巡る発言には困らされた。
日本経済新聞の「私の履歴書」から
物価が下がることにはプラス面もあるという「良いデフレ」論を展開し、円高・ドル安を歓迎する発言もし、デフレを悪化させた。
黒田前日銀総裁は2023年4月で任期が終わり、植田和男氏が日銀総裁となっています。2022年度の自殺者数が21,881人です。
速水日銀総裁の任期(98年3月~03年3月)の自殺者の(方の)数字を見ると「地獄」だったことがわかります。
1998年 32,863人
1999年 33,048
2000年 31,957
2001年 31,042
2002年 32,143
2003年 34,427
福井日銀総裁時代
速水日銀総裁の次が福井俊彦日銀総裁でした。
福井俊彦日銀総裁の時期が2003年(平成15年)3月20日~2008年(平成20年)3月19日です。
自殺者数
2003年 34,427人
2004年 32,325
2005年 32,552
2006年 32,155
2007年 33,093
2008年 32,249
福井氏が日銀総裁になっても、自殺する方の人数は減りませんでした。ここも地獄でした。
バーナンキ米連邦準備理事会(FRB)理事(後の議長)には「日銀が金利ゼロの準備預金で金利ゼロの短期国債を買っても効果はない。長期国債や株を大量に購入すべきだ」と言われた。
スティグリッツ米コロンビア大教授からは「日銀に任せていてもデフレは止まらない。政府紙幣を発行して減税や歳出に当てるべきだ」と提案された。
日本経済新聞の「私の履歴書」から
スティグリッツ米コロンビア大教授は、2001年にノーベル経済学賞を受賞しています。
自殺者が3万人超えた後に、バーナンキFRB議長やスティグリッツ米コロンビア大教授が日本銀行の総裁になっていたら、十万人以上の命が助かったでしょう。
黒田前日銀総裁の功績も正しく評価できない日本ですから、外国人が日本銀行総裁になり、大規模な金融緩和を実行したら非難轟轟だったでしょうけど。
「日銀が金利ゼロの準備預金で金利ゼロの短期国債を買っても効果はない。長期国債や株を大量に購入すべきだ」
「日銀に任せていてもデフレは止まらない。政府紙幣を発行して減税や歳出に当てるべきだ」
日本の大学教授の多数は、このような金融政策を理解しなかった。
つまり有効な金融政策がわかっていなかったと言えるでしょう。
06年3月に福井総裁のもとで日銀が量的金融緩和の解除を決めた。結果的には時期尚早だった。
08年の米リーマン・ブラザーズ破綻に伴う世界金融危機後にデフレの復活を招いたのは残念だ。
日本経済新聞の「私の履歴書」から
「量的金融緩和の解除」とは金融緩和をやめたという意味です。
バーナンキFRB理事(後の議長)がアドバイスした「長期国債の購入」をやめてしまいました。
安倍晋三元首相も書籍の中で「私が官房長官時代、小泉純一郎首相と一緒に福井俊彦日銀総裁に量的緩和の解除は時期尚早だから辞めてくれ、とお願いしたにもかかわらず、06年に解除してしまった」と言っています。
白川方明日銀総裁時代
白川方明日銀総裁の期間が2008年(平成20年)4月9日~2013年(平成25年)3月19日です。
黒田東彦氏の「私の履歴書」には、まだ白川方明日銀総裁のことは出てきていません(23年11月24日時点)
大学教授であり経済評論家の高橋洋一氏は、白川日銀総裁のことを非難しています。
白川氏が黒田氏の金融政策を批判したことに対して「あんたが言える立場か!」と。
白川日銀総裁時代の自殺者数
2008年 32,249人
2009年 32,845
2010年 31,690
2011年 30,651
2012年 27,858
2013年 27,283
速水氏、福井氏より(日銀政策で)効果が出てきた感じはします。
黒田氏の大胆な金融政策を待たなければならなかった。
異次元の緩和をしても3~4年の月日がかかりました。
2013年 27,283人
2014年 25,427
2015年 24,025
2016年 21,897
2017年 21,321
2018年 20,840
2019年 20,169
2020年 21,081
2021年 21,007
2022年 21,881
黒田氏が財務省(旧大蔵省)にいた時
バーナンキ米連邦準備理事会(FRB)理事(後の議長)には「日銀が金利ゼロの準備預金で金利ゼロの短期国債を買っても効果はない。長期国債や株を大量に購入すべきだ」と言われ。
スティグリッツ米コロンビア大教授からは「日銀に任せていてもデフレは止まらない。政府紙幣を発行して減税や歳出に当てるべきだ」と提案された。
経済がわかっているバーナンキ氏やノーベル経済学を取ったスティグリッツ教授からしたら、日銀の政策は「歯がゆい」ものだったでしょう。
「大胆な金融緩和が必要」と何人もの日本政府関係者に伝えたはずです。
黒田日銀総裁以前の日銀総裁のイメージ
例えば、株の理論は精通している。
はらみ線、たすき線、つつみ線、一目均衡表の先行スパン、基準線、転換線など誰よりも精通している。
でも、株の実戦では全く勝てない。
損失を続けている。
しかも、負けてるのに「チャートの方がおかしい」と言っている。
自殺者が21000人ぐらいだった日本が3万人を超え、14年間3万人以上の数字が続きました。
マスコミは、この大惨事を全く騒がない。
しかも黒田日銀総裁の金融政策を非難ばかりしていました。
日本経済新聞:黒田東彦前日銀総裁の私の履歴書で、地獄だった時代の背景を知り日本の教科書としたい。