【石川さゆりの人生】連帯保証人になり56億円の賠償請求

【石川さゆりの人生】連帯保証人になり56億円の賠償請求

石川さゆりさんがお世話になった人の連帯保証人になり、約56億円もの損害賠償請求をされました。
最終的には、裁判所から約2億2千万円の支払い命令がなされました。

事情がどうあれ、連帯保証人になってはいけません。
石川さゆりさんが56億円もの請求を起こされた経緯をみてみましょう。

石川さゆりさんにはAさんという『タニマチ』がいました。
辞書で『タニマチ』を調べると、力士やスポーツ選手や歌手などの芸能人に多額の援助で支援する人物。
明治のおわりに大阪谷町(たにまち)筋4丁目の相撲好きの医者が相撲取りから治療代を取らなかったことを起因する。

タニマチだったAさんの仲介で国民銀行から借金してカラオケの15店舗を買い取りカラオケ事業を始めた。
バブル後の不況で経営を断念し、Aさんに経営権を譲渡。
その後Aさんに頼まれAさんの連帯保証人となった。

1999年に国民銀行が倒産し、債権を引き継いだ「整理回収機構」がAさんの借金分含めた約56億円を連帯保証人である石川さゆりに損害賠償請求をした。

結果、裁判所から約2億2千万円の支払い命令が下された。

56億円から2億2千万円になって良かった。
とも言えない程の大きな金額です。

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石川さゆりさんの人生冬景色

石川さゆりさんが小学校1年生時に島倉千代子さんのショーを見て歌手になりたいと思った。
10歳の時、熊本から横浜に移る。音楽教室の月謝は「牛乳配達」をすることで捻出した。

中学3年生の時「ちびっ子歌謡大会」で優勝。
ホリプロにスカウトされて15歳でアイドル歌手としてデビュー。

当初は、森昌子、山口百恵と「ホリプロ3人娘」で売り出したが、石川さゆりのみ売れなかった。
石川さゆりの代わりに桜田淳子が入り『中3トリオ』が作られ3人は大人気となった。
最初の冬景色です。

さゆりさん本人は「水着の写真も断れるし、一人でやるほうが(私には)合う」と前向きに考えた。
人気アイドルになれなかった分、歌に集中することを決意した。

二葉百合子さんの門をたたき、歌を基礎から学んだ。
そして歌だけでなく民謡や日舞にも打ち込んだ。
これが後に生きて大物演歌歌手となります。

1977年アルバムからシングルカットされた「津軽海峡・冬景色」が大ブレーク。
第28回NHK紅白歌合戦に初出場。

1981年には、石川さゆりさんの低迷期を支えた7歳年上のマネージャーA氏と23歳で結婚。
社員と歌手の交際は禁じられていたためA氏はホリプロを辞めフリーライターになった。

A氏は盗撮本の「盗み撮りのエロチズム アクションカメラ術」を出版し、累計170万部の大ベストセラーになった。
今は数千部売れたらヒット作品、10万部売れたらベストセラー作品。
それが驚異の累計170部売れ。
石川さんは後に「彼も必死だった」と述懐しています。

1981年結婚
1984年長女出産
1989年離婚
2番目の冬景色です。

産経新聞で娘さんのことを話されています。
本当に個性的な子、ユニークに育ってくれました。
いろんなものに興味を持って、よく知っている。

音楽でも本でもアートでも「これ聞いて」「これ読んでみて」「これ知ってる?」って面白いものを見つけてくる。(異色コラボで)「X―Cross」というアルバムのアーティストの絡みでも、すごく彼女に影響されてます。

本当は私のそばでもっとしっかりやってくれると助かるんですけど、仕事に関わってしまうと、皆さんに気を使ったり、私が一番役に立つこと、本当のことが言えなくなるから、「自由でいたい」って。確かに刺激を与えてくれる、本音で・・・。
それはすごくいい環境ですね。

最初の試練(冬景色)では、歌を基礎から学び直したため、演歌歌手として成功しています。

離婚という2番目の試練(冬景色)

3番目の試練は冒頭でも書いた約56億円損害賠償事件。

普通の人では潰れてもおかしくないような損害賠償金額。
タニマチの連帯保証人になったための金額です。

石川さゆりさんは人生を前向きに考えることができる人だから、3つの大きな試練(冬景色)を乗り越えることができたのでしょう。

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娘という支え

離婚している石川さゆりさんにとって、精神面で支えてくれているのがお母さんと娘さん。
信頼できる家族がいることが大きい。

松原千明さんが前の夫の石田純一さんのことを、このように述べています。
娘(すみれさん)を授かることができたことに感謝している。

岡村孝子さんが癌になって、苦しい癌治療を耐えることができたのは娘さんがいたからと語っています。

そして石川さゆりさんも産経新聞のインタビューで「娘の存在が大きな支えになっている」

まとめ

石川さゆりさんの人生は「大きな冬景色」に何度か遭遇してきました。

石川さゆりさんの前向きな姿勢やお母さんや娘さんの支えもあり、無事に「天城越え」することができました。

写真はReal Sound
記事内容は週刊文春2023年4月6日号を参考