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【バスを使わない京都観光】嵐山を代表する渡月橋
京都観光ではバスは使いたくない。
バスを使うと渋滞に巻き込まれ身動きが取れなくなります。
バスを使わないでも京都では多くの観光スポットがあります。
嵐山を代表する渡月橋も行きたい1つです。
京福電車(嵐電)「嵐山」駅下車、徒歩2分
阪急「嵐山」駅下車、徒歩8分
JR嵯峨「嵐山」駅下車、徒歩11分
渡月橋に行くなら法輪寺にも寄りたい。
もとは橋の南にある法輪寺に因んで「法輪寺橋」と言われていました。
渡月橋の方が有名だが主従関係でいえば、法輪寺が主で渡月橋が従の関係。
渡月橋の名前の由来
空海が弟子の道昌(どうしょう)に廃寺だった葛井寺を再興させた。
寺号も法輪寺と変えた。(829年)
寺ができると、橋がほしい。
なぜなら京都から法輪寺へ参詣するには橋がなければ川を渡れない。
法輪寺建立から橋の計画はあったに違いない。
法輪寺あっての渡月橋(当時は法輪寺橋)
場所は、今の渡月橋よりも上流にあった。
1606年(慶長11年)角倉了以によって保津川(桂川のこと)の開削工事とともに現在の位置にかけ替えられた。(江戸時代は1603年からの始まりですから江戸時代初期)
嵐山にはもともと桜がなかった。
後嵯峨上皇(1220年~1272年)が「あの山に桜がほしい」と桜を植えさせた。
桜は吉野山から取り寄せた。
時代は鎌倉時代
嵯峨を芸術化するという王朝の伝統は生きていた。
美的な営みが、明治以前の日本に数少ない「公園」を成立させた。(司馬遼太郎氏)
後嵯峨天皇の子が亀山天皇(1249年~1305年)
亀山天皇が嵐峡の空にある月を見て「あたかも橋が天の月を渡しているようだ」と橋に『渡月橋』の名前を与えた。
大久保利通と渡月橋
幕末、大久保利通が京都で奔走している時に、嵐山で舟遊びをしたことがあった。
そして明治維新の6年後に大久保利通が嵐山に来た。
「天下の名勝だと」感心していた風景が激変していた。
驚いた大久保利通が、土地の老人に聴くと
「人間の手が入って始めて美しい美観が保たれるのです」
「旧幕(江戸時代)の頃は、嵐山の保全のための取り決めがあり、組織があり、お金もかけていました」
嵐山の保全は『封建領主』だった法輪寺と天龍寺、そして下流に木材置き場を持つ木材荷主などが分担し、幕府がこれを監督していた。
明治維新によって『封建領主』だった法輪寺と天龍寺が寺領を失って橋の保全責任も消滅していた。
荒れた嵐山を見て、大久保は政治の何たるかを教えられる思いがした。
大久保は東京に帰り勝海舟にきいてみた。
幕臣でもあった勝海舟は、溜飲の下がる思いで幕府時代の仕組みが、いかによかったかを大久保に語ったとされる。
私たちが嵐山の素晴らしい景観が見れるのも、空海(行基まで遡るかも)からの長い期間の多くの人たちの努力のおかげです。
嵐山を代表する渡月橋はバスを使わないで行ける京都観光スポットです。
渡月橋の歴史も踏まえて観光してみたい。
渡月橋の写真はTHE GATEより
ブログ記事内容は司馬遼太郎「街道をゆく26」嵯峨散歩の箇所を参照