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東海道新幹線秘話、十河信二の度胸とウソ
十河信二の度胸とウソがなければ、今の新幹線は無かった。
少なくとも、こんなに高速で走れていなかった。
なぜなら十河信二が国鉄総裁にならなければ新幹線の幅は、私たちが使っているJRの電車の線路と同じ幅、「狭軌」の1067ミリで開通していました。
東海道本線の線路を増やし輸送量増加で実行する方針だったものを、十河信二は「別線路での高速鉄道」を実行すると主張し、それを成し遂げました。
全国のJRの幅が1067ミリ
新幹線の幅は1435ミリ
世界的には1435ミリが「標準軌」
そしてJRの1067ミリは「狭軌」と呼ばれています。
十河信二(そごう しんじ)が国鉄総裁就任したのが1955年(昭和30年)の71歳の時。
当時の71歳だと今の80歳ぐらいの感覚でしょうか。
東京帝国大学卒業後に鉄道院に入りそこで広軌主張していた後藤新平に出会っています。
この考えに触れてなければ狭軌で新幹線は開通したかもしれません。
十河信二が国鉄総裁就任後、当時の国鉄技師長に報告書を出させたら「広軌で新幹線を作る金など無い」と回答してきたため交代させた。後任には島秀雄を選び、技師長にした。
最大の問題は、東京~大阪間の高速鉄道網の建設費だった。
技師長の島秀雄が試算すると当時の金額で3800億円。
十河信二の度胸とウソがなければ今の新幹線はなかった
十河信二が言った「建設費を半分にしろ」
そして言葉を続けた。
「半分にした予算が国会を通れば、あとは自分が責任を持つから心配するな」
予算が国会を通過し1959年(昭和34年)に着工を始めた。
全線の9割の建設が終了し、後戻りができないタイミングを狙い、十河信二は予算不足を自ら報道陣にリークした。
非難轟轟(ひなんごうごう)の嵐となった。
そして十河信二は辞任。
計画的なウソと度胸がなければできなかった十河信二ならではの新幹線開通だった。
技術の島秀雄
蒸気機関車のⅮ51を作ったのが島秀雄。
技術面では島秀雄がいなければ新幹線はできなかった。
国鉄を辞めていた島秀雄を強引に復帰させたのも十河信二。
高速で走らせる新幹線は安全が最優先されます。
島秀雄は安全のため「既存の技術」だけで新幹線を完成させました。
安全第一の考えからです。
新幹線の開通式には十河信二は呼ばれなかった。
島秀雄も開通式には出なかった。
1964年10月1日
新幹線の父と呼ばれる十河信二と島秀雄のいない開通式が行われた。
文藝春秋23年1月号 101人の輝ける日本人 牧久(まき ひさし)氏の十河信二の内容を参考にしています。
関西方面の旅行、関東への旅行、そして東京~大阪間の日帰出張が当たり前にできる時代です。
十河信二と島秀雄がいなければ日本の発展にも影響が出たでしょう。
そして山下達郎のBGM
私たちは、JR東海のCM「シンデレラエキスプレス}を見ることはできませんでした。