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ラクビー部に入部して社会人になって成功しましょう
ラクビー部やアメフト部出身者は社会に出てから成功している人が多い。それに比べ野球部出身者で成功している人は少ない伝説。土田雅人さんのコメントから探ります。
土田雅人さん:日本ラクビーフットボール協会会長
土田さんはサントリーフーズ社長、サントリービバレッジソリューション社長を経てサントリー専務執行役員に就任。優秀なビジネスマンです。
秋田工業高校でラクビー部に入部。秋田工業高校時代でやっていたのは「マネジメントだ」という。
ラクビーは選手自身が考え試合をする
土田雅人さんは言う
「ラクビーに向いていたんでしょうね。野球みたいに監督の指示で動くのではなく、試合が始まれば全部選手が判断できる競技がラクビーだから」
高校野球だと打つ打たないも監督の指示。選手は監督の指示どおりに動き、自分で判断する余地が乏しい。
秋田工業高校から同志社大学に進んだ。早稲田・慶應・明治大のように堅ぐるしい伝統に縛られなくてよかった。同志社大学は選手たちの主体性に任されていた。選手たちに任された環境で大学選手権3連覇を達成。
平尾誠二さんは同志社大学のチームメイト。その後サントリーに入社しラクビー部で活躍。
1995年に現役引退して監督就任。1年目で日本選手権初優勝。
1997年から99年まで日本代表のFWコーチ。2000年にサントリーの監督に復帰。
2年目で公式戦全制覇し3年目は日本選手権連覇を達成。
偶然ともいえる人との縁
土田雅人さんは平尾さんとの出会いで人生が変わりました。
秋田工のトップ選手は明治大に進むのが普通だったが、平尾さんの誘いで同志社大学に進んだ。
同志社大学受験の時には、京都の平尾さんの実家に2週間ほど泊めてもらった。
サントリー入社を決めたのも平尾さんの交友関係の人たちとの話が聞けた結果だった。
昼は営業の仕事をし夜はラクビーの練習する環境にあったのが、当時はサントリーとリコーぐらい。
サントリーに入社しなかったなら営業という仕事に就いていなかった。
営業時代には新規販路開拓で社長賞も受賞した。
土田雅人さんは中学では野球部でした。
高校、大学で野球を続けたとしても何かしらの足跡を残せたでしょう。
「全国で優勝できる部活をやりたかった」理由から秋田工のラクビー部に入部した。
自分で先を考え判断しそして行動していった。
だからこそラクビーとビジネスで成功した。
ラクビーというスポーツで状況に応じた的確な判断力が養えたのではないでしょうか
盟友 平尾誠二さんという人間に出会わなけれは土田雅人さんの人生も違うものになっていたでしょう。
サントリーのヘッドコーチの時に「主将は誰がいいと思う?」
平尾さんが「お前のチームは暗いから、永友がええんちゃう?」
永友キャプテンで神戸製鋼の連覇を止めることができた。
このブログ内容は週刊新潮の連載:スポーツライター小林信也氏のアスリート列伝の内容をもとにしています。